“はじめに このページでは、ぼくの変態の先生、吉田兼好先生の紹介をします。 『徒然草』は、学校で勉強したり、入試の問題になっていたり、くそ面白くないシーンで活躍していますが、別に襟を正して正座をして読むものではないと思っているんです。 ぼくは、吉田先生をとっても尊敬していますが、別に気むずかしい方ではありません。先生は、人様からは出家した偉いお坊さんと言われていますが、ぼくの吉田先生は、単なる非国民です。たぶん日本赤軍に誘われたら、二日間考えて参加してしまう方だと思っています。ちなみにぼくは日本赤軍ではありません。特におもてだったテロ活動もしていません。 ぼくは、不良です。ちょっと斜に構えてグレてしまいました。これは、全部吉田先生のせいです。ぼくは、吉田先生に洗脳されてしまったのかもしれません。でもそれは、とっても幸せなことだと思っています。 『徒然草』は、こんなに面白いのに、聖書みたくはやっていないのは、みんなが、吉田先生に洗脳されてしまうと日本中、非国民だらけになってしまい、国がなくなってしまうから、政府が隠蔽しているのかもしれません。ぼくも、こんな危険な活動をしていると、神隠しにあうかもしれません。そうしたら、このページはそこで終わりです。そういった場合は、どうぞ察して下さい。 女の子にももてないし、友達も最近遊んでくれなくなって、お金もなく、仕事もばかばかしくなってきたので、『徒然草』の翻訳なんてぜんぜん世の中の役に立たないことをやってみようかな、なんて思いつきました。 ぼくは『徒然草』を十六回読みました。『徒然草』で射精できるかもしれません。そのぐらい大好きな書物です。日本で『徒然草』が焚書にあったら、ぼくはイスラエルに亡命しようと思っています。そんな、大好きな『徒然草』を翻訳するにあたって、よくよく考えると大変なことだと思ってきました。全部訳せるかも、自信がありません。お金がもったいないので、底本は岩波文庫ですませます。時間ももったいないので、辞書と参考書もあまり使わないことにします。だって、べつに古典の専門家になるつもりはないですから。ちなみに古語辞典は旺文社です。 だから、変な翻訳をしてしまうかもしれません。間違っていたら優しく教えてください。 実際、翻訳作業を開始してみると、時間がかかって大変です。だから、最初から読んでいって、訳したいと思ったものから順番に訳し、残ったものは、後で泣きながら 訳そうと思っています。 こんなに苦労して翻訳しているときに、うちにエホバの証人がきました。ぼくの楽しい妄想が中断されたので、今日は本当にぶっ殺そうと思ってしまいました。 本当は、原文と対訳にしたかったのですが、原文を打つのは大変なので、訳だけにしました。序段は一応打っておきました。もし、あまりにも暇すぎて『徒然草』の原文を打たないと死んでしまうという人がいらっしゃったら、ぼくにご一報ください。 1998年 春 途中に 『徒然草』の翻訳を初めてから、もう四年もたってしまった。途中、予想通りとん挫し、しばらくの間放置していたが、近頃、とある理由でもう一度、訳してみようと思った。四年前のぼくは今よりも、もっと馬鹿で、少し調子に乗っていた節があるので、すでに翻訳済みの段に対しても若干の手を入れた。また、今回は対訳ということもあって「見当違いの意訳はみっともない」と思ったので極力抑えているつもりである。とは言ってもそれほどたいして世の中に影響がない作業であることは何ら変わりない。 あれから四年たち、最近では『徒然草』が首都の若い女性達の間で密かなブームをよんでいる。都内、青山の某アパートでは流行の最先端を追い求める若者達でごった返し、『徒然草』を考える合同コンパなるものが開催され、そこでフィーリングが合った男女が渋谷の円山町の坂をネオンに向かって登って行くという。 常識ある人間であれば、この先、「うそだよーん」などと書かなくても察していただけることを信じている。 四年の歳月の間に『徒然草』の原文を打ってみたいという殊勝な志をお持ちの大学生からお便りをもらったり、意外なこともなきにしもあらずであったが、時間だけは刻々と過ぎていってしまったことは間違いない。 今回は、序段より順に、訳していければいいと思うが、今までのぼくの傾向からして、困難を極めることは間違いなさそうである。 2002年 1月 中旬 あとがき 六年がかりで翻訳が終わりました。二十代前半から初めて、石川啄木であったならとっくに死んでいる年齢になってしまいました。これが『源氏物語』であったならば、死ぬまで翻訳が終わらなかったことでしょう。 ぼくの周りにいる人は、ぼくが徒然草の翻訳をしているなんていうことは誰も知らないことで、やっと今日、翻訳を終えたということも誰も知らないことでしょう。それでも、今日は記念すべき日のような気がして、明日は仕事を休んでしまいたい気分です。もちろん、明日は何事もなかったように仕事をする予定なのですが。 この作業を始めたときは、おもしろ半分に始めたわけで、まさかこんな日が来るとは思っていなかったけど、ついに最後の読点を打ち付ける日が来ました。途中、何度も辞めようと思って、実際、一年間断筆なんかもしてみましたが、なんとかここまでやってきました。なんとか今日まで生きてきました。 この訳は、訳しっぱなしで校正を入れていないので誤字脱字、勘違い甚だしいなど、多々、あると思います。たまには自分でも読み直して、修正を行っていきます。もし、ここを読んでくださって、気が付いたことなどあれば、ご連絡いただければとてもうれしいです。最近、ウィルスメールと迷惑メールしかお便りが届かないので、生身の人間から電子メールを頂いたら、欣喜雀躍すると思います。 また、この翻訳は何かの目的があって行っているものではないので、色々な部分で引用していただいてもかまいません。だけど、できましたら是非ご一報いただければ幸いです。そうしたら、何か少し報われた気分がして、ぼくは救われると思います。 この翻訳も永遠のものではありません。何かの事情で、ぼくが消えてしまえば、おそらく誰もホームページの使用料金を払う人がいなくなって、この翻訳も消えてしまうでしょう。そんな日がいつの日か訪れるのだということを忘れずに、徒然草の翻訳を脱稿します。 2004年 9月12日 行楽日和の日曜日に 改訂にあたって 完訳から二年半、すっかり放置しており、その存在すら忘れていた、このホームページですが、誤字脱字等、ご指摘いただいた箇所を訂正し、見た目も刷新しました。 また、読み返してみて、自分でも自分で書いた文章が鼻につく箇所、解読困難な箇所について、気がついた範囲で加筆、改ざんを施しました。 このホームページを読んでいただいた上に、わざわざご連絡いただき、誤りを指摘していただきました皆様、この閉鎖的なホームページをご覧頂いて、励ましのご連絡をくださった皆様、稚拙なコンテンツにリンクを張ってくださった皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。 2007年6月吉日(かどうかは不明)に 新訂版にあたって このたび、十年以上前に訳した『徒然草』を四ヶ月かけて校閲した。もはや校閲というよりも訳し直しであった。誤字脱字、行抜け、誤訳、酷かった。 これで高校生がコピー&ペーストして宿題に持って行っても、少し先生に怒られる程度までは精度が上がったのではないかと勝手に思っている。 しかし、『徒然草』が持つ本来の魅力を味わいたいのであれば、こんな得体の知れない個人訳を読んでいる場合ではないとつくづく思った。 だが、知らない間にこのページも検索エンジンに引っかかることが多くなってしまったようで、大変恐縮している。変な訳を載せていたら恥だと思い、泣く泣く校閲するに至ったわけだが、いくら校閲しても、し足りないのが本音である。 校閲にあたって、一人作業は寂しいので、ブログを利用した。本来であれば、校閲終了と共に「あぼーん」と消してしまう予定であったが、携帯電話での閲覧及び、注釈をウィキペディアにリンクしたため、何かの役に立てばと残しておくことにする。ぼくが滅んでも、しばらくはインターネット上にテキストが残るかも知れないから。 なお、このサイトの翻訳は自由に引用して戴いて構わないが、その内容を保証するものでもなく、著作権を放棄するものでもない。著作権もへったくれもないけど……。 当分校閲はしたくないと思いつつ、校閲完了(のつもり)のご挨拶にかえて。 2009年7月22日 皆既日食の日に 吾妻利秋”
さらにこちらでは
“・乃木坂ナチ服→当事者の痛みを考えろ、これだから日本は。 ・HINOMARU→当事者の痛みを考えろ、これだから日本は。 ・BTS原爆+ナチ服→表現の自由を守れ、昔のことは関係ない、これだから日本は。 これ、3つとも同じ属性の人が騒いでることを知った上でニュースを見ましょう。”
— 永山久徳さんのツイート (via gkojax)
“みなさんもご存知のとおり、伊勢神宮では20年に1回、式年遷宮というのがあって、まるっきり全部を壊して全く新しいものを建て直すんです。 なんでそんなことをするのか、とても不思議なことです。過去の遺産を保存するのだとしたら、世界遺産にでもして誰も手をつけられないようにしておけばいいのだけれど、それは西洋流の保存ですよね。日本流の保存というのは、全く同じものをなぞり返して、更新していくことで何かを受け継いでいくというふうに発想するわけです。そのまま保存していてもだめなんです。賞味期限が切れる。 20年に1回建て直すわけですから、ある宮大工の棟梁が指揮をとると、20年後はたぶんお弟子さんが棟梁となってやるという、そういう具合に受け継がれてきている。図面も全部引き直すらしいです。大工の棟梁が式年遷宮の棟上げ式のときに「呪言」という、おまじないのような言葉を言うんですが、それはそのときしか言っちゃいけないので、たぶんうろ覚えになって、もう随分昔から意味不明な言葉になっているらしい。でも棟梁を引き継ぐ人は、それを聞いて覚えなくちゃいけない。”
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原研哉氏トークイベント採録(1/5) | くらしの良品研究所 | 無印良品
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2010-02-03
(via rosarosa-over100notes)
(via gkojay)
(via andi-b)
“実家の写真スタジオで働いてるんだけど、娘に着物着せて写真撮りたいって外国人ご夫婦がやってきた。娘さんの着物に「オーゥ、ビューティフー」とかなり興奮なさっていたが、旦那様が奥様に「君も頼めばいい」みたいに言い、奥様にも着物を。いざ家族の写真撮ろうとしたら、旦那様だけシャツにジーンズで浮いている。旦那様はどうする?と聞いたら、自分のサイズの着物なんかないだろうと陽気にお笑いになる。(かなり背の高い方だった)俺少し考えて、正月にうちで一番のっぽなじいちゃんが着てたやつならいいんじゃないかと思いついた。母に出してもらい、「うちの家族のものだけど、着てみないかい」と。俺、三十年近く生きてたけどあんなに喜んだ人初めて見た。なんか全部報われたような気がして、裾ちょっと足りなかったのがすごく申し訳なかった。779 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 14:28:09 ID:Sq15qpQ1»778外人さんは家族写真をものすごく大事にするからね。きっと一生、居間に飾ってもらえると思う。その娘さんがおばあちゃんになっても語り継がれると思う。”
— ベア速 日本びいきの外人を見るとなんか和む (via mcafee-x6)
“以前「ここが変だよ日本人」ってたけしの番組があったけど その中に「日本の学生の学力低下」って議題があったんだよね。 それでどっかの高校生が「学校の勉強なんて社会に出てから役に立たないじゃないですか」って 言ってるのがいたんだけど、たけしが「勉強を教科の範囲内としてしか とらえられないなら相当頭悪いよ、哲学や論理的思考を養って人生を楽しむ 応用が利くように、あえて国語や数学って形でパッケージして教えてるんだよ。 それを理解しようとせずに、中身を知ろうとせずに袋詰めのまま『役に立たない』って ゴミ箱に捨てちゃうなら、そりゃ時間の無駄だし人生の無駄だよ」って言ってたな。”
— てんこもり。 【短レス】たけし
2008-06-09 (via twinleaves, geeker) (via mitaimon) (via kooo-memo) (via highlandvalley) (via mnak) (via hmaru) (via jacony) (via kitutuki) (via maidskii) (via boxeur) (via hkdmz) (via highlandvalley)
賢いわー
(via jagganath45, geeker-blog)
(via gkojay)
“尾高忠明の面白いインタビューがあって、いつぞやの札幌交響楽団の定期演奏会のパンフにあったのだが、新世界よりは日本ではそのような理由で分かりやすい、演奏もしやすい(アマオケでも比較的容易に演奏できる)曲というイメージだが、それをイギリスでやると、驚かれる。「新世界だから、1日で合わせちゃうよ」 などとBBCフィル(だかどこだかのオケ:失念)で言うと、 「オタカ、何を言ってるんだ、新世界が1日で合うわけないだろう、真面目にやってくれ」 と返される。 つまり、新世界は、ヨーロッパでは異国情緒の 「難曲」 で、どう表現したら良いのか、難しいのだそうな。確かに2楽章は五音音階だし、チェコの語法は、いわゆる西欧(イギリス、ドイツ、フランス、イタリア音楽)とはかなり異なっているらしい。むしろ、日本人の感性が、チェコの音楽とふしぎに合っていて、新世界も我が祖国も、すんなり入ることができて、モルダウなんかも大人気である。新世界の2楽章やモルダウは、日本人なのに酷く郷愁を誘う。これは考えてみればとてもふしぎな事だ。”
— CD雑記 2013年 1月~12月 (via 2011–11)
“日本人の誰もが、ブルーベリーの現物を見た事も食った事もないのにブルーベリー味のジャムやガムなどを食っていた時代、それを昭和と呼びます。”
— Twitter / @kettansai (via ajinotatakinamennna) (via nanikano)
“2012/10/02たぶんこれ日本人自身の中にも勘違いしてる人多いと思うが歴史をさかのぼればわかるけど、そもそも日本が大陸に進出したのはなにも自分から好き好んでというより、そうせざるをえなかったいわば必然性があってそうなっただけだから。チャンコロ、すなわち当時の清のアホが、犬のごとく欧米の尻馬に乗って調子こいて日本を挑発し威嚇してきたのがすべての元凶。少なくとも1880年代においては、清の海軍力は欧米の助けによって日本のそれを凌いでいたと認識されており、これを背景にしていずれは日本に対して軍事的に圧力をかけてくることは必至であり、その状況はまるで今現在の両国とそっくり。チャンコロは自分よりつおい者には犬のごとくへつらい、逆にちょっとでも弱みを見せるならばどこまでも付け込んでくる、中身はまるでチョンコそのもの。以下は実際に1886年代に長崎で起こった事件だがこの事件の顛末を見れば先にちょっかいを出してきたのはチャンコロなのであり、また当時の両国の力関係もよくわかるはず。長崎事件http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B61886年(明治19年)8月1日、清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に艦艇修理のためと称して入港した。8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊したり暴行を働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。長崎県警察部の警察官が鎮圧に向かった。そして警察官と清国水兵が双方抜刀して市街戦に発展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、水兵は逮捕された。水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いた。8月14日、長崎県知事・日下義雄と、清国領事館・蔡軒の会談で、清国側は集団での水兵の上陸を禁止し、又上陸を許すときは監督士官を付き添わすことを協定した。106 サイベリアン(WiMAX) 2012/10/02(火) 00:12:11.31 ID:b7YqaN4+0 »83のつづき8月15日、前日の協定に反し、午後1時頃より300名の水兵が上陸。棍棒を持つ者もあり、また、刀剣を購入する者も少なくなかった。清国水兵数人が交番の前でわざと放尿し交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにした。300人の清国兵が3人の巡査によってたかって暴行し、1人が死亡した。これを見ていた人力車車夫が激昂し、清国水兵に殴りかかった。すると、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。そして、止めに入った警察官と清国水兵がまたも斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本人住民も十数名が負傷)という大事件となった。事件の影響この事件は日本国内の反清感情を大いに刺激し、後の日清戦争を引き起こす遠因の一つとなった。事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出た。当時、清は定遠を始めとする最新式の戦艦を保有しており、日本海軍はこれに敵わないと考えられており、またこの事件の2年前に発生した甲申政変でも日本は清に敗退しており、当時の日清の力関係は清が優位に立っていた。清は日本政府に対して、日本の警察官が今後帯刀することを禁ずべしという要求を突き付け、これを飲ませることに成功した。↑このように、チャンコロは今も昔も国際条約や約束なんかはじめから守る気なんざさらさらないのであって、昔からきゃつらは集団で略奪や暴動を引き起こし、自らの下劣な行為は一切反省しもせず、本質的にエゴむきだしの、およそ文明人とは思えない野蛮な土人のあつまりでしかなく、つい先日の暴動を見ても、もうわかり易すぎるほどあきらか。歴史は常にくりかえすんだよ。”
— 2ちゃん的韓国ニュース : 台湾人 「日本人は礼儀正しく優しいのに、なぜ極端な軍国主義に陥ったの?」 (via sqiz)